プロローグ
俺が自衛隊に入った理由を聞かれると、みんな真面目な答えを期待する。
「国を守りたい」とか、「人の役に立ちたい」とか。
でも、本当の理由は、そんな立派なものじゃない。
高校三年の冬、将来のことなんて何も考えていなかった俺は、家で深夜アニメを見ていた。
その合間に流れたコマーシャル——迷彩服姿のアイドルが笑顔で敬礼し、「あなたも仲間になりませんか?」と呼びかける映像。
それを見て、「ちょっと面白そうだな」と思ったのが、すべての始まりだった。
ゲームやアニメで育った俺は、現実の戦いなんて、想像の中の出来事だと思っていた。
汗と泥にまみれ、命を懸けるなんて、画面の向こうだけの話だと。
けれど、自衛隊に入って数年、訓練や任務を重ねるうちに、俺は自分が本物の武器を扱う側の人間になっていった。
銃の重さも、撃ったときの反動も、仲間と背中を預け合う感覚も、全部が現実になった。
そして今、俺は尖閣諸島の防衛任務に就いている。
地図の中の名前だった島が、今日これから俺の足で踏む土地になる。
これから起きることを、俺はまだ何も知らない。
けれど、この日のことは、一生忘れられないだろう。
雨の戦場で、俺は大切なものを失うのだから——。
第1章「雨の戦場で失ったもの」
あの日の雨の匂いを、今でも覚えている。
潮と土と火薬の匂いが混ざり、喉の奥を焼くような、あの重い空気を。
「神谷、来るぞ!」
隣の米兵が叫んだ瞬間、空気が裂けた。
耳をつんざく銃声とともに、泥が跳ね、視界の端で誰かが倒れる。
私は反射的に銃を構え、前方の影に向かって引き金を引いた。
弾が命中したかどうかはわからない。ただ、撃たなければこちらが死ぬ——それだけだった。
尖閣諸島。
その名前は、訓練中にも何度も耳にしてきた。
だが、地図の上でしか知らなかったその場所は、今や私の足元で泥にまみれ、血に濡れていた。
海から押し寄せる湿った風は冷たく、降りしきる雨が迷彩服を肌に貼りつかせる。
呼吸は浅く、胸が焼けるように痛い。
それでも、足は前へ出さなければならなかった。
「聡!」
振り向いた先に、彼女がいた。
陸自の女性隊員、橘真希。年は二つ下で、入隊してからの数少ない友人だった。
戦場でも彼女の声ははっきりと届く。
だが、その声が叫びに変わるのは、一瞬のことだった。
彼女の背後で閃光が走り、次の瞬間、真希の体が崩れた。
私は駆け寄り、泥の中から彼女を抱き上げた。
雨が顔を叩き、血と混ざって視界がにじむ。
「真希、しっかりしろ!」
返事はない。ただ、唇がわずかに震え、何かを言おうとして——止まった。
そのとき、周囲の音が遠ざかったように感じた。
銃声も爆発音も、すべてが水の底から聞こえるように鈍くなる。
私の腕の中で、真希の体温が少しずつ失われていく。
それが何よりも怖かった。
敵がどこにいようと関係ない。この温もりが消えることだけが、耐えられなかった。
雨の向こうに、米兵の姿が見えた。
大柄な男で、以前の合同訓練で顔を合わせたことがある。
その彼が、胸を撃たれて倒れていた。
目は開いたままで、雨粒が頬を滑り落ちていく。
戦場は、知っている人間の命すら一瞬で奪っていく。
これはゲームの世界じゃない。
頭の中に、ひとつの考えが渦を巻いた。
——やり返せば、また誰かが死ぬ。
この地獄は終わらない。
報復も勝利も、もう意味を持たない。
私は、銃を握る手が震えているのを感じた。
それは恐怖ではなく、無力さからくる震えだった。
「神谷、下がれ!」
隊長の声に振り向くと、部隊は退却の準備を始めていた。
私は真希の体を抱えたまま、泥を踏みしめて後退する。
雨は止む気配もなく、海と空の境目を消していく。
この日、私は大切な人を失った。
そして、戦う意味もまた失ったのだ。
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今回の「日本と中国の二面性」の解説記事はこちら
書(描)いた人:雲子(kumoco, Yun Zi)
諸子百家に憧れる哲学者・思想家・芸術家。幼少期に虐待やいじめに遭って育つ。2014年から2016年まで、クラウドファンディングで60万円集め、イラスト・データ・文章を使って様々な社会問題の二面性を伝えるアート作品を制作し、Webメディアや展示会で公開。社会問題は1つの立場でしか語られないことが多いため、なぜ昔から解決できないのか分かりづらくなっており、その分かりづらさを、社会問題の当事者の2つの立場や視点から見せることで、社会問題への理解を深まりやすくしている。