第2章「銃を置き、言葉を選ぶ」の続きです。
第3章「土下座の交渉席」
北京の空は曇っていた。
首相専用機の窓から見えた街並みは、灰色の霞に包まれていて、遠くのビルの輪郭がぼやけていた。
地上に降り立った瞬間、冬の冷たい空気が頬を刺す。
これから向かう会談の場が、俺にとってどれほど重い意味を持つのか、改めて実感させられた。
人民大会堂。
歴史的な交渉が行われてきた巨大な建物の中は、静かで、しかし張り詰めた空気に満ちていた。
長い赤いカーペットの先、重厚な会議室に入ると、真ん中に巨大なテーブルが置かれ、その向こうに中国の大統領と複数の高官が座っている。
通訳の耳にはイヤホン、机上には厚い資料の束。
互いに視線を交わすだけで、言葉にしなくても緊張が伝わってくる。
冒頭は、表向きの挨拶や友好関係の確認だった。
しかし、本題に入ると、空気が一変する。
中国側の交渉官が、過去の出来事を淡々と、しかし厳しく口にした。
歴史的な争い、尖閣での衝突、そして両国で流れた血。
その言葉の一つひとつが、俺の胸を突き刺す。
「日本は、また同じ過ちを繰り返すのではないか」
その問いに、俺は即座に否定した。
だが、彼らの表情は変わらなかった。
疑いは深く、会談は堂々巡りを始める。
時間が過ぎるにつれ、議論はすれ違いの連続になった。
紙の上では整った言葉も、心の壁を越えることはできない。
その壁を壊さなければ、この場で和平は生まれない——そうわかっていた。
俺の脳裏に、雨の戦場がよみがえる。
泥の中で動かなくなった真希。
倒れた米兵の顔。
あの時の無力感。
もう二度と、同じことを繰り返したくない。
気づけば、俺は椅子から立ち上がっていた。
両国の通訳が一瞬動きを止め、会場全体が静まり返る。
そして——俺はゆっくりと膝をつき、額を床に近づけた。
「……どうか、この国とあなたたちの国の未来のために、力を貸してほしい。
過去のすべてを、俺の世代で終わらせたい」
床の冷たさが額を通して伝わる。
沈黙が、永遠にも思えるほど続いた。
やがて、正面の大統領が低く何かを呟いた。
通訳が耳元で、「わかりました」と訳す。
その瞬間、緊張がほどけ、背中の力が抜けた。
横目で見た交渉官の表情は、先ほどより柔らかかった。
和平への道は、まだ始まったばかりだ。
だが、確かに一歩は踏み出せた——そう信じられた。
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今回の「日本と中国の二面性」の解説記事はこちら
書(描)いた人:雲子(kumoco, Yun Zi)
諸子百家に憧れる哲学者・思想家・芸術家。幼少期に虐待やいじめに遭って育つ。2014年から2016年まで、クラウドファンディングで60万円集め、イラスト・データ・文章を使って様々な社会問題の二面性を伝えるアート作品を制作し、Webメディアや展示会で公開。社会問題は1つの立場でしか語られないことが多いため、なぜ昔から解決できないのか分かりづらくなっており、その分かりづらさを、社会問題の当事者の2つの立場や視点から見せることで、社会問題への理解を深まりやすくしている。