第2章「汗と泥と友情と」の続きです。
第3章「砂浜に響く心臓の音」
その日、海の色は濁っていた。
空も海も、灰色の絵の具を溶かしたように、重く沈んでいる。
尖閣諸島奪取作戦——その作戦名を聞いたとき、私は一瞬、現実感を失った。
訓練で何度も耳にした名前だったが、それが「本当に行く場所」になるとは思っていなかった。
輸送船の甲板に立つと、潮風が顔に叩きつけられる。
塩の匂いと、ディーゼルの油臭が混ざり、吐き気を誘った。
周囲の兵士たちは皆、無言で銃を抱えている。
その中で、明慧は私の隣に立ち、海の向こうをじっと見つめていた。
「怖い?」と聞くと、彼女は小さく笑った。
「怖くないって言ったら嘘になる。でも……雪瑤がいるから、少しは平気」
その一言が、胸の奥に重く響いた。
上陸の合図が鳴った瞬間、世界が一変した。
耳をつんざくような砲声、足元を揺らす爆発音。
砂浜に飛び降りた途端、銃声が四方から降り注ぐ。
訓練では「弾の音はパンッと鳴る」と教わったが、本物はもっと低く、重く、鋭い。
空気そのものが破裂しているような音だった。
私は銃を握りしめ、砂を蹴って前へ進む。
足元の砂は重く、靴の中に入り込んで滑る。
視界の端で、誰かが倒れる。名前も知らない兵士だった。
その瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなったが、立ち止まれば自分も死ぬ。
だから、前だけを見た。
戦闘は混乱そのものだった。
自衛隊の迷彩服と米軍のヘルメットが、砂丘や岩陰から現れては消える。
銃口の閃光が一瞬ごとに目を刺し、耳鳴りが消えない。
私は必死に弾を撃ち返しながら、明慧の姿を探した。
見つけたとき、心臓が一瞬止まった。
彼女は岩場の前で押さえ込まれ、米兵らしき屈強な男に組み伏せられていた。
その男の手には銃が握られている。
——間に合わなければ、彼女は撃たれる。
気づけば私は銃を手放し、地面を蹴っていた。
距離は十数メートル。
頭の中は真っ白で、足音も息遣いも聞こえない。
ただ、「間に合え」という叫びだけが全身を突き動かしていた。
男が引き金に指をかける、その瞬間。
私は体当たりでぶつかり、二人とも砂の上に転がった。
男の腕を掴み、銃を払い落とす。
殴られた頬に鈍い痛みが走ったが、構っていられない。
拳を握り、全力で男の顔を殴った。
拳の皮が裂ける感覚が伝わってくる。血の匂いが鼻を突いた。
何度殴ったのか覚えていない。
ようやく男の体が動かなくなったとき、肩越しに明慧の息が荒く聞こえた。
振り返ると、彼女の頬には砂と血がついている。
それでも、目だけはしっかりと私を見ていた。
「……ありがとう」
その声はかすれていたが、はっきり届いた。
次の瞬間、背後で爆発が起き、砂が雨のように降り注ぐ。
私は明慧の腕を掴み、再び走り出した。
戦場の音が、鼓動と混じり合い、世界全体が遠くなる。
生きるため、守るため、それだけを考えていた。
——あの瞬間、私は自分の命よりも、明慧を失うことのほうが怖かった。
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今回の「日本と中国の二面性」の解説記事はこちら
書(描)いた人:雲子(kumoco, Yun Zi)
諸子百家に憧れる哲学者・思想家・芸術家。幼少期に虐待やいじめに遭って育つ。2014年から2016年まで、クラウドファンディングで60万円集め、イラスト・データ・文章を使って様々な社会問題の二面性を伝えるアート作品を制作し、Webメディアや展示会で公開。社会問題は1つの立場でしか語られないことが多いため、なぜ昔から解決できないのか分かりづらくなっており、その分かりづらさを、社会問題の当事者の2つの立場や視点から見せることで、社会問題への理解を深まりやすくしている。