第1章「霧の村を出る日」の続きです。
第2章「汗と泥と友情と」
入隊から数日後、私は北京郊外の新兵訓練基地にいた。
駅から大型トラックに詰め込まれ、見知らぬ制服の人間たちに囲まれて運ばれてきたその場所は、私が知っている世界とはまるで違っていた。
整然と並んだ兵舎、遠くに見える広大な訓練場、土と汗の匂い。
胸の奥で、興奮と不安が混じった何かが渦を巻いていた。
支給された軍服は、厚手で重かった。
靴は新品で、最初は歩くたびに足の皮がこすれて痛んだ。
鏡に映る自分は、もうあの古い制服の女子高生ではなかった。
でも、その目の奥にある陰りは、まだ消えていなかった。
初日の朝五時、喉を突き刺すような笛の音で目を覚ます。
まだ空は薄暗く、息を吸うと冷たい空気が肺に染みた。
掛け布団を跳ね飛ばし、急いで靴を履く。
外に出ると、他の新兵たちも慌てて列に並び、教官の怒号が飛び交っていた。
「走れ! もっと早く! 動きが遅い!」
その声は、朝焼け前の空気を鋭く切り裂いた。
最初のランニングは、地獄のように感じた。
舗装されていない道を何キロも走り、汗が首筋を流れ落ちる。
息はすぐに上がり、肺が燃えるように痛む。
途中で足がもつれそうになったとき、横から声がした。
「大丈夫? ペース落とす?」
振り向くと、私と同じくらいの背丈の女性兵が、少し息を切らしながら並走していた。
丸い目が印象的で、口元には笑みが浮かんでいる。
「……うん、なんとか」
情けない声が出た。
彼女はそれ以上何も言わず、私のペースに合わせて走り続けた。
訓練が終わったあと、食堂で再び彼女に会った。
銀色のトレーに盛られた食事は、白米、炒め野菜、卵スープ。
普段の私の食事よりずっと豪華だった。
私は無意識に、米を口に運ぶスピードが速くなっていた。
「そんなに急いで食べたら、喉に詰まるよ」
向かいの席から声が飛んだ。
顔を上げると、ランニングで並走してくれた彼女がいた。
「趙明慧(ジャオ・ミンホイ)。あなたは?」
「……李雪瑤」
「そっか、よろしく。雪瑤って呼んでいい?」
頷くと、彼女はにっと笑った。
その笑顔は、私が長い間見たことのない種類のものだった。
見返りを求めない、ただそこにいることを喜んでくれているような笑顔。
夜の点呼が終わり、兵舎の灯りが消えたあと。
布団にくるまっていると、隣のベッドから小さな声が聞こえた。
「ねえ、雪瑤。尖閣諸島って知ってる?」
突然の話題に、私は少し戸惑った。
「名前だけ……」
「資源がいっぱいあるらしいよ。そこを手に入れたら、みんなでお腹いっぱい食べられるって」
暗闇の中で、明慧の声はどこか夢見るようだった。
私は何も答えられなかった。
でも、その言葉は心の奥に小さな灯をともした。
それは、単なる資源や領土の話ではなかった。
——「みんなでお腹いっぱい食べられる日」
そんな当たり前のことが、彼女にとっても、私にとっても、どれほど遠い夢だったか。
次の日も、その次の日も、私は走るとき明慧の姿を探した。
きつい訓練の中でも、彼女がそばにいるだけで、息苦しさが少し和らぐ気がした。
仲間という存在が、こんなにも支えになるなんて——私は今まで知らなかった。
次の第3章「砂浜に響く心臓の音」はこちら
今回の「日本と中国の二面性」の解説記事はこちら
書(描)いた人:雲子(kumoco, Yun Zi)
諸子百家に憧れる哲学者・思想家・芸術家。幼少期に虐待やいじめに遭って育つ。2014年から2016年まで、クラウドファンディングで60万円集め、イラスト・データ・文章を使って様々な社会問題の二面性を伝えるアート作品を制作し、Webメディアや展示会で公開。社会問題は1つの立場でしか語られないことが多いため、なぜ昔から解決できないのか分かりづらくなっており、その分かりづらさを、社会問題の当事者の2つの立場や視点から見せることで、社会問題への理解を深まりやすくしている。