第3章「砂浜に響く心臓の音」の続きです。
第4章「歓喜の旗、沈黙の海」
戦闘は、どれほど続いただろう。
時間の感覚はとうに失われていた。
銃声が遠くなったと思えば、また近くで爆発が響く。
耳の奥はずっとジンジンと痛み、喉は乾ききって声が出ない。
けれど、気づいたとき、戦場の音は確かに変わっていた。
断続的だった銃声がやみ、代わりに聞こえるのは、味方たちの歓声と、誰かの笑い声。
砂浜の向こうで、赤い旗が高々と掲げられている。
——勝ったのだ。
私は膝をつき、荒い息を整えながら、その光景を見つめた。
陽が傾き、赤い旗の布が海風を受けてはためく。
その向こうに広がる海は、昼間よりも穏やかで、灰色の中にわずかな金色が混じっている。
戦場に似つかわしくないほど、美しい色だった。
明慧が私の横に来て、肩を叩いた。
振り向くと、彼女は泥と血にまみれた顔で、それでも笑っていた。
「やったね、雪瑤」
その笑顔を見て、胸の奥が熱くなった。
言葉がうまく出ず、私はただ頷くことしかできなかった。
部隊の中央では、隊長が勝利の合図を送っている。
兵士たちは互いの肩を抱き合い、笑い、泣き、叫んでいる。
私も明慧と肩を組み、その輪の中へ入った。
誰かが私の手を強く握り、別の誰かが背中を叩いた。
そのすべてが、現実感を持たないまま胸に染み込んでいく。
——私たちは生き残った。
——そして、勝った。
その夜、仮設のキャンプで配られた食事は、いつもより豪華だった。
缶詰の肉、温かいスープ、ふかふかの白米。
食べながら、私はふと気づく。
この食事は、きっと「勝者の味」だ。
でも、その勝利の裏には、数えきれない命が失われている。
砂浜に横たわっていた仲間たちの顔が、ふいに脳裏に浮かんだ。
笑っている周囲の声が、少しだけ遠く感じられる。
私は箸を止め、深く息を吸った。
潮の匂いと、焦げた火薬の匂いがまだ混じっている空気を、肺いっぱいに吸い込む。
——この勝利は、本当に望んでいたものなのだろうか。
明慧が向かいで、何も気づかないように笑っていた。
その笑顔を壊したくなくて、私は自分の疑問を胸の奥に押し込んだ。
この瞬間だけは、考えるのをやめよう。
明慧が生きていて、私も生きている。
その事実だけを、今は信じたかった。
旗が、夜風に揺れていた。
歓喜の声と、海の音と、遠くで揺れるその赤い布が、
私の目に滲んで見えた。
エピローグ
勝利から三日後、海は嘘のように静かだった。
波はゆっくりと砂浜を撫で、戦闘の痕跡を少しずつ飲み込んでいく。
あの日、耳をつんざく銃声と爆発が響いていた同じ場所で、今はただ、海鳥の声が空に溶けていた。
私たちは本土に戻る準備をしていた。
旗はまだ高く掲げられているが、その下には、もう歓声も笑い声もない。
誰もが疲れ果て、無言で荷物をまとめている。
勝利の余韻は、戦いで失われた命の数と同じだけ、静かに重く沈んでいた。
明慧は隣で水筒の水を飲み、空を見上げた。
「雪瑤、帰ったら何したい?」
唐突な問いに、私は少し考えてから答える。
「……寝たい。お腹いっぱいご飯食べて、もう一度寝たい」
明慧は笑った。その笑い声は、戦場の空気を少しだけ和らげた。
輸送船がゆっくりと岸を離れると、海風が頬を撫でた。
振り返れば、遠ざかる島影が灰色の空に溶けていく。
あそこには、私たちが掲げた旗も、倒れた仲間たちも、置いてきたものすべてがある。
私は胸の奥で小さく呟いた。
——あの日の自分に、この景色を見せられるだろうか。
貧しい村で、未来を探していたあの私に。
安定を求めて踏み出した一歩が、こんな場所に辿り着くとは想像もしなかった。
海の向こうには、まだ知らない世界が広がっている。
そしてその世界には、戦わなくても手に入るものも、きっとあるはずだ。
私はその答えを探すために、再び歩き出すだろう。
明慧が隣で小さく歌を口ずさんでいた。
その声は、波の音と混ざり、やがて遠くへ流れていった。
私は静かに目を閉じ、揺れる甲板の上で、初めて深く息を吐いた。
——戦いは終わった。
でも、私の物語は、まだ終わらない。
今回の「日本と中国の二面性」の解説記事はこちら
書(描)いた人:雲子(kumoco, Yun Zi)
諸子百家に憧れる哲学者・思想家・芸術家。幼少期に虐待やいじめに遭って育つ。2014年から2016年まで、クラウドファンディングで60万円集め、イラスト・データ・文章を使って様々な社会問題の二面性を伝えるアート作品を制作し、Webメディアや展示会で公開。社会問題は1つの立場でしか語られないことが多いため、なぜ昔から解決できないのか分かりづらくなっており、その分かりづらさを、社会問題の当事者の2つの立場や視点から見せることで、社会問題への理解を深まりやすくしている。